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頑張っているのに、なぜか景色が変わらない — 焦る心を整え、自分らしい「余白」を取り戻すための地図

経験を成長に繋げる方法とは?

熱心な空回りの正体

「もっと経験を積まないと」
「ここで踏ん張らないと、成長できない」

そんな言葉を自分に言い聞かせて、毎日必死に走っている。タスクはこなし、経験値は溜まっているはずなのに、ふと立ち止まると「あれ、自分は前に進んでいるんだろうか?」という不安に襲われる。積み重なっていく感覚よりも、ただ疲労だけが澱(おり)のように溜まっていく感覚。

私自身、そんな「熱心な空回り」を経験した時期がありました。やる気はある、手も動かしている。けれど、何かが「しっくりこない」。

この違和感の正体は何なのか。
今日は、人材育成の分野で確かな「地図」として参照され続ける中原淳氏の論文『経験学習の理論的系譜と研究動向』を頼りに、この一生懸命な停滞の「構造」を少し紐解いてみたいと思います。

これは、「もっと頑張れ」という話ではありません。むしろ、絡まった糸をほどき、経験を自分の中に正しく「代謝」させるための、チューニングの話です。

目次

「経験学習ジャングル」で迷子になっていないか

そもそも、私たちは「経験」という言葉に、あまりに多くの期待を背負わせすぎているのかもしれません。

この論文では、世の中で語られる経験学習が、実は多種多様な理論のごった煮状態であり、それが「経験学習ジャングル」の様相を呈していると指摘されています。

このジャングルを整理すると、大きく分けて3つの「レイヤー(層)」が見えてきます。

  1. 日々の改善(循環モデル):業務を振り返り、次のアクションを修正する(コルブのモデルなど)。
  2. 修羅場での変身(経験からの学習):新規事業や再建など、タフな環境で一皮むける(マッコールらの理論など)。
  3. 前提を疑う(批判的内省):組織や社会の「当たり前」を問い直し、意識を変革する(批判的マネジメント教育論など)。

「空回り」を感じている時、私たちは無意識にこれらを全部同時にやろうとしていないでしょうか?
日常業務を回しながら(1)、修羅場のような成果を求め(2)、さらに組織のあり方まで悩む(3)。これでは、キャパシティオーバーになるのも無理はありません。

今、自分が向き合っているのはどのレイヤーの経験なのか。まずはその「構造」を捉えるだけで、漠然とした重圧は少し整理されます。すべての経験を、劇的な成長の物語にしなくてもいいのです。

「反省」で止めず、「内省」で味わう

次に大切なのが、経験をどう自分の中に取り込むか、という「機能」の話です。

真面目な人ほど、経験した後に「反省」をしてしまいます。「あそこがダメだった」「次はこうしなければ」。それは自分を裁く行為になりがちで、心に痛みを伴います。痛みがあると、人は無意識に振り返りを避けるようになり、結果として経験が栄養にならずに流れ去ってしまいます。

論文の中で、学習の源泉として位置づけられているのは「内省(リフレクション)」です。
これは反省とは少し違います。起きた出来事や、その時の自分の感情を、ただ「味わう」こと。
「あの時、なぜ私はモヤッとしたのだろう?」「あの言葉が引っかかったのは、どんな背景があるからだろう?」

食べ物を丸呑みしても栄養にならないように、経験もまた、よく噛み砕き、消化吸収するプロセスが必要です。
「反省」で自分を責めて代謝を止めるのではなく、「内省」によって経験を味わい直す。そうして初めて、経験はあなたの血肉として「整う」のです。

「窓」を開けて、風を通す

そして、この論文が示すもう一つの重要な視点は、学習は孤独な営みではないということです。

かつて経験学習は個人のプロセスとして語られがちでしたが、近年では「他者からの支援」や、「他者に拓かれた内省」の重要性が強調されています。
一人で内省をしていると、どうしても自分の思考の癖(バイアス)から抜け出せません。論文には「這い回る経験主義」という強い警句も登場します。経験の量だけで勝負しようとすると、出口のない迷路を這い回ることになりかねないのです。

だからこそ、「窓」を開けることが必要です。
同僚、メンター、あるいは社外の友人。誰かに「ねえ、こんなことがあってね」と話してみる。他者という鏡に自分の経験を映し出し、フィードバックをもらう。
そんな「お膳立て」(環境づくり)こそが、停滞を打破するきっかけになります。

【結び】根っこを育てる時間

一生懸命走っているのに景色が変わらないと感じたら、それは足が遅いからではありません。
もしかすると、少し荷物が重すぎて、地面を這ってしまっているだけかもしれません。

「経験」というリュックサックを一度下ろし、中身を分類してみる。
そして一人で抱え込まず、誰かと焚き火を囲むように語り合ってみる。

そうやって「余白」を作ることでしか、育たない「根っこ」があります。
成果という果実を急ぐあまり、土壌を痩せさせてしまっては本末転倒です。まずは焦る気持ちを脇に置き、今日の経験をゆっくりと味わうことから始めてみるのはどうでしょうか。

種のスケッチ:概観図

一目でわかる!「経験学習」の理論と研究

森の歌

ー 知恵の種を別の形で味わう ー

鬱蒼と茂る 緑の迷路で
地図もないまま 泥をかいてる
「歩け、歩け」と 誰かの声が
背中を叩く 痛いほどに

汗をかいた分 強くなれると
信じて掘った 足元の穴
気づけば一人 空は見えずに
同じ場所ただ 回っているだけ

絡まった蔦(つた)が 足首を引く
重たい土は もう呼吸できない

ねえ 窓を開けて 風を入れてよ
一人で育つ 木なんてないから
鏡の中に 映った景色を
誰かの瞳(め)で 読み解いてほしい

嵐のあとに 芽吹く命も
静かな雨に 濡れる木の葉も
どれも等しく 「森」の一部で
比べ合うような ものじゃないのに

名前のない 痛みに
「名前」をつける その瞬間に
根っこは水を 吸い上げていく
冷たい理屈が 熱を冷ますように

絡まった蔦を 解く言葉が
乾いた喉を 潤してゆく

ねえ 窓を開けて 光を入れてよ
ここにあるのは ジャングルじゃない
あなたが耕す 小さな庭だと
誰かの声が 教えてくれる

フクロウの筆休め

今回、中原氏の2013年の論文を読み返していて、改めてハッとさせられた言葉があります。それは「這い回る経験主義」という表現です。

「現場経験こそがすべて」「やってみなきゃわからない」
それは確かに真実の一側面ですが、それだけを信奉すると、私たちは思考停止に陥り、ただ疲弊するだけの「現場」に取り残されてしまう。そんなリスクを、10年以上前からこの論文は予見していたように感じます。

だからこそ、経験には「理論」という補助線が必要だし、「他者」という補助輪が必要なのだと。
私たちが日々感じている「生きづらさ」や「停滞感」は、個人の能力不足というよりも、学習を支える「生態系」(理論や他者とのつながり)が不足しているから起きている現象なのかもしれません。

一見、孤独に見えるキャリアの道も、構造的に捉え直してみれば、そこには必ず他者と手を取り合う余地が残されている。そんな「人間賛歌」のようなメッセージを、無機質な論文の行間から受け取った気がしました。

学ぶことは、変わること。でもそれは、苦しい修行ではなく、本来はもっと豊かな営みであるはずです。そんなふうに、自分自身のあり方もチューニングし直したいと感じさせる論文でした。

フクロウからのおことわり

ここに書かれているのは、知の森を歩く中で見つけたヒントを、フクロウの視点で切り取った「スケッチ」のようなものです。正解でも教科書でもありません。
もしあなたの心に響く部分があれば、活用していただけたら嬉しいです。違和感があれば、そっと置いていってください。

今回の知恵の種(出典)

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